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Tue, 15 Jul 2014 16:45:49 JST (3566d)

長戸大幸

長戸大幸のプロフィール

長戸 大幸(ながと だいこう、1948年4月6日 - )は、音楽プロデューサー・企業経営者で、大手音楽会社ビーインググループの創業者で取締役。芸能プロモーター、ギタリスト・ドラマー・キーボーディスト、エフエム滋賀取締役。滋賀県大津市出身。

長戸大幸の概要

小室哲哉よりも早くに「音楽プロデューサー」という職業を世間に認知させた。

現在でもKANONJIやROCKAKUなどの名義で、B'z(ソロも同様)、doaを除くビーインググループ(GIZA studio、B-Gram RECORDSなど)に所属する多数のアーティストのプロデューサーとなっているが、引退宣言の後に実際にどのように製作に関わっているのかは明らかでない。なお、最近、一部の作品では「DAIKOH NAGATO」の名義でクレジットされるようになってきている。

音楽誌「よい子の歌謡曲」(1983年6月1日発行号)でインタビューが掲載されている。 2011年、ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役会長 兼 CEOに就任した石坂敬一は長戸大幸は世界最高のプロデューサーだと発言している。

長戸大幸の略歴

滋賀県立膳所高等学校在学中に音楽サークルを立ち上げ、ザ・プラネッツを結成。メンバーには後にGS・ザ・キャンディーズ、ザ・カーナビーツで活躍するポール岡田や、後のSONY洋楽ディレクター・森下彰夫が在籍していた。卒業後、GSバンド・WEEDSを結成し、月世界、京都会館などで活動していた。当時の対バン相手に後のGS・ザ・ナポレオン、ザ・タックスマン、ザ・タイガース(サリーとプレイボーイズ、ファニーズ)がいた。(長戸作曲の当時では珍しい英語詞曲でエントリーしたアマチュアオーディションで優勝したのはファニーズであった)

1969年5月、京都で5人組のロックバンドFeedBackを結成。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ京都公演の幕開けで出演。ドラム担当。

1971年9月までにメンバーチェンジを経て3人組となり「赤と黒」というバンド名で1972年2月1日に京都をフォークロックのメッカとすべく、デビューシングル「Mr.D.J.」をテイチクのBLACKレーベルよりリリースした。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、ギター、作詞、作曲を担当。

1975年、フォーライフの第1回新人オーディションに入選したのがきっかけで、阿久悠の事務所オフィス・トゥ・ワン(連絡先はユニオン出版)に入り、作曲活動を開始する。デビュー作は1976年12月のシーチャン・ブラザーズ。また和田アキ子、舘ひろしなどの楽曲に作曲家、編曲家、プロデューサー、ライターとして活躍する。一方でフォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFE Fresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定されていたが、諸事情により、発売中止となった。ツアーも途中降板した。また、マネージメントオフィスBIG MUSICを設立し、妹尾隆一郎のマネージャーを引き受ける。

スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」を「Danny Long」名義(後に判明)で制作して、ヒットさせたことから、1978年11月、織田哲郎、月光恵亮らとビーイングを設立。その後三原順子、浜田麻里、本城未沙子、秋本奈緒美などをデビューさせたりと、様々な活動をする。

1980年09月21日、三原順子のデビュー作「セクシー・ナイト」ではバックバンド・システムのキーボーディストを担当。

1983年09月01日、早瀬ルミナのデビュー作「甘い暴力」収録の「BAD COMMON SENSE」では中島正雄と共にギターを担当。

1985年06月01日、ザ・チューブ(現・TUBE)をプロデュースしてデビューさせる。

1988年09月21日、B'zをプロデュースしてデビューさせる。

1990年代前半、中島正雄(元BMF社長、コロムビアミュージックエンタテインメント社長)とともに音楽プロデューサーとしてビーイング所属ミュージシャンらの制作に参加。「KDD(K-カラオケで歌われる・D-ドラマ主題歌・D-大幸)」がヒット曲の三要素とまで言われた。ちなみに、逸見政孝(夜も一生けんめい's、高田淳次、など有名タレントの楽曲の作詞を手がけた。

1991年、坂井泉水をZARDとしてデビューさせその後、KIX-S、WANDS、T-BOLAN、Mi-Keをデビューさせる。

1992年、大黒摩季をデビューさせる。

1993年、DEENをデビューさせる。耳の持病悪化を理由に音楽プロデューサーを一旦、引退。東京(東日本)での仕事や文化を嫌うようになり、大阪に活動拠点を移す。

1995年、FIELD OF VIEWをデビューさせる。

1997年、小松未歩をデビューさせる。大阪アメリカ村にGIZA studioの前身となるレコード会社・ZAIN大阪(Westhaus)、Amemura O-town Recordを設立。その後、音楽プロデューサー業に復帰し、大野愛果を作曲家デビューさせる。

1999年、倉木麻衣をデビューさせる。

2002年、ビーイングの90年代に活動したアーティストのベスト盤at the BEING studioシリーズでプロデュースを行う(織田哲郎を除く)。同時に3年間、Fayrayもプロデュース。

2002年から2004年まで3年連続して滋賀県高額納税者番付第1位であった。

2005年、エフエム滋賀の取締役に就任。

2007年、音楽事務所ビーイング代表取締役を退任するが、歌手の質を保ちたいことを理由にプロデューサー業は続投。但し、白石乃梨、Gulliver Get、さぁさなどのクレジットが確認できない作品も存在する。